「プロレス神秘学 神の存在を巡って」

 

text by Toshikazu Bessho

 

古来より人々を魅了してやまない議論が、二つ存在する。
神に関する議論と、プロレスに関する議論である。

かつて、レスリングは、神事であった。それは善玉と悪玉、つまり神と悪魔の戦いを人間が再現し、神に奉納したものであり、人々はそれを見ることで、神と悪魔が拮抗するこの大宇宙の仕組みを理解したという。ほんまかいな。

古代ギリシアにおいて、レスリングは、哲学と同様に絶対マストアイテムであった。
プラトンらほとんどの哲学者は、ワインをがぶ飲みして哲学を議論し、少年を愛し、かつレスリングに明け暮れたという。これは本当である。
当時のレスリングを、「パンクラチオン」と言う。以来パンクラチオンの伝統は名を変え形を変え現代に受け継がれている。

プロレスにおいて、スコラ哲学の神学論争のように繰り返されてきた議論がある。

それはいわゆる、「ガチ」か「ヤオ」かというテーマである。
この命題は、実は人間存在の本質に関わる問題を含んでいて、つまりさきほど述べた、「神は存在するのか?」という問いと、実はコインの裏表を成している。
そう、プロレスについて思索を深めることは、存在論を極めていく行為なのである。
ここでいう神とは、いわゆる特定の宗教の神を意味するのではなく、人間を超越した宇宙を統括するような存在の全てのことである。

 乱暴に分類すると、「ガチ」=物質、科学主義者=オッカムの剃刀 =無神論者=ダーウィニズム=偶然主義、「ヤオ」=観念論者=霊性、精神、宗教の信仰者=必然主義、となる。言い換えると、我々の世界は、「自由意志」で成り立っているのか?もしくは、「必然と運命」で成り立っているのか?という問い掛けのことだ。

 あなたも疑問に思ったことはないだろうか?
自分が自分の親のもとに生まれ、今の自分の名前をもらい、遊び、働き、死んでいく。
これは全て決まっていることなのか?それとも全ては偶然の積み重ねなのか?

 この二つの命題は、いまだ当然だが結論が出ていない。
18世紀以降、「ガチ」論者が大いに優勢となり、現代はまさに科学技術、物質主義が支配的な時代ではあるが、いまだに霊性を信じる者は多いし、1960年以降ニューエイジという形で、物質主義に対するカウンタームーブメントも発生している。
科学技術や物質主義に対する批判は多いけれども、だからと言って説教や祈りだけでは、何も解決はしない。
どちらも片一方だけだと、機能しないのだ。

 ここで当初の問いに戻ると、だいたいにおいて、「ヤオ」だの「ガチ」だの言う人間は、大変心が貧しい人が多い。
そういう人は本質を見ていないのである。
では本質とは何か。それは、プロレスそのものであり、一つのキック、チョップ、それそのものである。
これを我々の宇宙にあてはめると、「物質だけを信じるのではなく、神だけを信じるのではなく、バランスよく世界そのものを楽しみなさい。」ということになると思う。

 そしてその後我々は、自分自身が、世界というプロレスを楽しむ観客であるばかりでなく、各々の人生とファイトしている、一人のレスラーでもあることに気付くのだ。
前座、付き人、ドームのメイン。その舞台がどこであれ、今日も我々は、リングに登らなければならない。巡業は、続いていく...

 大事なことを忘れていた。

哲学や神学論争、プロレス観戦はともに、やりすぎるとアホになるのである...(実地検査にて証明済。)

2004年6月5日

name: 別所 利一 ( Toshikazu Bessho )
birth: 1971/2/14
prof: 当サイトの管理人。